金言金行集 |
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2021年5月5日 |
機法一体と言えば、概念的になるが、才市は、 それに引継いで、「なむあみだぶつ」をつづけさま に唱える。 これは普通の口称でなくて、才市自身が 「如来さん、如来さん」と自分を呼んでいるので ある。 機法一体などと、哲学的命題でなくて、 才市は、自分をそこに丸出しにして、「これを見よ、 これを見よ」と言っておるのである。 彼の「なむあみだぶつ」は、単なる念仏ではない のである。 才市言う、 ●才市や、よいもの、もろたよ、 五劫思惟を(ごこうしゆい)を貰を(た)よ、 才市わ、こがあな(こんなに)、 ををけな(多い・大きい) ものを、 貰をて、置場があるま〔い〕。 此中(なか)い〔へ〕取られるのよ。 ありがたいよの。 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。 五劫の永い間、思惟に思惟を煉(ね)った、 絶対無碍光(むげこう)の阿弥陀を貰った才市は、 その中に取り込められてしまっておるのである。 妙好人 浅原才市集 鈴木大拙編著より |
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金言金行集 |
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2021年5月7日 |
●浮世 稼(かせ)ぎわ、 六字でしましよう、 「なむ」が浮世で、 「あみだ」わ浄土。 これが一つのなむあみだぶつ。 才市はさらに歩(ほ)を進めて、一切を徹底 した楽天主義中に入れてしまうのである。云く、 ●よろこびを、まかせるひとわ、なむの二じ。 われが、よろこびや、なむがをる。 才市やどんどこ、はたらくばかり。 いまわ、あなたに、くをとられ、 はたらくみこそ、なむあみだぶつ。 らくもこれ、よろこびもこれ、 さとるもこれ。 らくらくと、らくこそらくで、 うきよをすごすよ。 才市をして、「どんどこ」 はたらかして、しかも 彼には何等の苦を覚えさせざるのみならず、 さらに積極的に 「らくこそらく」でと、如何にも 大安心の上に立って、少しも動くところなき所以 (ゆえん)は、どこにあるか。 これはいうまでもなく、又さきから繰り返すが 如く、自分と阿弥陀とを、一元化した 「南無阿弥陀仏」の名号そのものに、なりきって おる才市だからである。 浅原才市集 鈴木大拙編著より |
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