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2020年12月4日 |
師走に入った。 坊主も走るほど年末は皆が皆、一様にバタバタと 忙しく駆け巡る。 もう今年も一ヵ月をきったかと、しみじみと想う。 コロナ禍な日常が半年以上も続いてるので、 この態勢が一つの日常となっている。 慣れてはならぬ。 緩んでもならぬ。これからは、これが日常となる。 歴史は繰り返すようである。 世界中で感染拡大するウィルス、これを期に 世の中が世界の景色が大きく変貌していくことと なるであろうと、感覚的に受け取ってる人も少な くないであろう。 例えば、働き方や、人との接し方、交流など が変われば交通や都会と田舎の関係、人口 密度の分布図も変わったりサービス業の形態 街の景色、経済、社会のありかた・常識として まかり通ってたものの変化などなど、 先を見通して慌てて対応して先取りしようとするも よし、流れのままに生きるもよし、 何しろこの度の激変の時代はこの時代に生きる 人々が対処する。百年前は百年前の時代の 人々が生き抜いて来られた。 諸行無常という。 この世の存在、現実、万物すべてが流れ行き 変化し消滅し同一性をたもてない。不変のもの など無いという意味である。 常住不変とは対義の意。 それは、我らでなく、仏さんの世界。 激変激動の我が人生を如来様は、常にいつ どこまでも私を離さずに抱きかかえて下さって おられる。 落ち通しの私。 これを凡夫という。 正々堂々と凡夫も凡夫、泥凡夫の無自覚の 自覚をもって歩ませて頂きましょうぞ!! なむあみだぶつ なむあみだぶつ |
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2021年1月7日 |
謹賀新年。 令和三年(2021年)が始まった。 正月の度に思いだす言の葉がある。 一休さんの言葉。 出だしは、「正月・元旦・門松」等々、諸説あるよ うだが、どれであっても構わないと頂いている。 さほど、大きく意味合いが変わらないので、 正確にはこの言葉を使ったと一休さんが、こだわ る訳がないであろう! 「門松や 冥土の旅の 一里塚 めだたくもあり めでたくもなし」 民衆に対して、正月元旦が来た、めでたい めでたいと言うている姿を観て、 新たなる歳を迎えたと云うことは、死がそれだけ 近づいたということ。 生死(しょうじ)の解決は済んだか それで ええのか! 市中を竹の棒の先端に人間の骸骨髑髏を突き 刺して練り歩いたという。 それが、不気味だ正月早々、縁起が悪い めでとうないというて、皆が外に出なかった・・・ それが三が日の風習と京都では云われている とか・・・ 生死(しょうじ)の解決も毛頭ない心中にて日々を 送るも ええじゃないか、そのままでよいと言う悟りの見方 もあり。 それじゃあ いかんと、めでたくもあり めでたく もなしという見方もあり。 はたまた、仏の家に身も心も投げ入れてみれば 万事めでたし娑婆世界との見方もあり。 それぞれ違うようで同じである。 ただし、生死の解決が済んだものの観える 大宇宙である。 坊さんであれ、民衆であれ、門徒檀信徒で あれ、仏縁が熟されれば、この大宇宙を観て みたいと発心する。 万事めでたしもよし・そのままで ええやないか もよし・めでたくもあり めでたくもなしも、よし である。 南無阿彌陀佛と親様と一つになろうと気張るの か、すでに一つになって下さってあることを 実感してその御光に照らされて己の 凡夫性を強く照らし出されて、あゝ恥ずかしや もったいなやとなるのとでは大きな差がある。 それは大宇宙を一度は観てみたいと発心したも のなら頭でわかった了解したものは 星の数ほどいるであろう。 頭の中の理解と悟り(信心の世界)とは違う。 理解と, 妙境に抱きとられたものの体得経験の 事実とはおおいに異なるわけである。 なんにしても 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ |
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