金言金行集 |
---|
2020年10月28日 |
七里 恒順(しちりこうじゅん)師いはく、 「石は設(たと)ひ小なりとも沈むべき性質のもの なれば、之を大海(たいかい)に投ずるに その底 まで沈めり。 然るに船は何程大船(たいせん)なりとも水上 (すいじょう)に浮びて自由に廻轉(かいてん)し、 能(よ)く重荷を乗せて此岸(このきし)より彼の岸 に運送す今 我等罪業深重の身、生死(しょうじ) の大海(たいかい)に沈むべき筈なるに、弘誓 (ぐぜい)の願船に乗じぬれば生死の苦海ほとり なきも「乗せてかならず わたしける」小石すら沈む のに岩よりも重き罪業の身が、安々と涅槃の彼岸 へ往生とぐるのは全く弘誓の力なり」 と。 世の人多くは、沈むべき者が浮ぶのであると云 ふことに氣付かぬ。 それがために如来の願心が頂かれず、信ずる、 たのむの理窟(りくつ)に滞りて、眞(しん)に ほれぼれと慶ぶことの出来ぬのでは、如何にも (いかにも)情ないことではないか。 七里 恒順和上 安心百話より |
|
金言金行集 |
---|
2020年11月5日 |
離れ家で念佛 越中西砺波郡(にしとなみごほり)の某(それ がし)、ある日 家内に語るやう、今日一日は五欲の 鬼に暇をやり、眞實の御報謝にお念佛をはじむ。 未だ二十分間も経(た)たざるに、勝手の方 (かた)にて子供の悲鳴の聲(こえ)聞えければ、 某はふと念佛を忘れて、何事の起りしぞやと、 その聲に耳を傾けたり。 某これではいかぬと心を取直して念佛をする うちに、また座敷裏(ざしきうら)の方(かた)にて、 鍬(くわ)を以(もつ)て土を起す音を聞き、 わが田地(でんち)を誰人(だれ)が荒すぞと起(た) ちて障子をあけて瞋恚(しんに)を炎(もや)すなど、 とても一日はおろか一時間も定心(じょうしん)を 以て念佛が出来ぬことを某つらつら感じたる結果、 真宗の念佛は鍬鋤(すきくわ)持ちながらの気儘 (きまま)な念佛ぢやと今更(いまさ)ら氣が付いた と云ふ。 安心百話より |
その他のエピソード⇒⇒詳細ページ3100へのリンク |