金言金行集 |
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2020年6月11日 |
源左「ところがな、或る朝何時(いつ)もの如く草を 刈(かり)に山にゆきました。草が刈れたので牛の 脊(せ)にひよつとその草をあげやうとした時にの、 嬉しかつたぢや ふと案じるものをそのままひきう けて助けてやる。心配のあるだけこの彌陀がひき うけたと知らせてもらや、もう心配のしやうもない 身にさせてむらいましたぢや 南無阿彌陀佛々々々々々々」 さう云つてなごやかな微笑(びしょう)をうかべな がら、さも嬉しさうに言葉をついで 源左「これなら心配が必要(い)りませんぢや、珍し いことで御座んすの御勿體ないことですの、 如来様の御(お)念力がとどいてくださいましての、 案じてゐるところを案じのありだけ引きうけて助け るこれに間違ひはありませんじやけの、 一座聞いてすとんと分(わか)らう。この御座(おざ) で合點(がてん)しやうとかかつても仲仲 間に合ま せんぢやけの」 源左さん(法の園) |
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金言金行集 |
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2020年6月12日 |
私は源左同行の前ではどうしても頭がさがる。 多(た)くさんの方につきあふが源左同行位(くらい) 無我な人は少い。 無我なお人好しの同行だからと云つて私はけつし て楽な感じでつき合へない。それは何だかこの 八十七の爺さんは自分の生活行爲の奥の奥まで みぬいてゐるやうな威嚴がどこかに含まれてゐる やうな氣がするから、、、、、、、、、、、。 よくこの爺さんをみてゐると何だか暗示にとみ豫察 (よさつ)にたけた人のやうにも思はれる。 と云つて決して「呼び出し」をする狐使(きつつかひ )の迷妄(めいもう)な信者とは全然ちがつてあか ぬけのした人間味をもつたと云へるやうな爺さん である。 だから私はめつたに出逢へぬ寶(たから)のやうな 氣がして、大切に何時(いつ)までも自分のうちに しまつてをきたいやうな氣がする。 だからこの爺さんが死んだらどんなに淋しいか今 から考へてもたまらない氣がする程 私はこの 爺さんが好きである。 源左「私(わたくし)は時にお慈悲話をさせられ るが。私の親様が私の口から出て下さるので少し も心配しません。 親様の直説を味ひながら話さしてゐただくのです から。」 法の園・記者・辛川忠雄氏 因幡の源左さん |
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