金言金行集 |
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2020年7月25日 |
或る人曰く、私は大きな成功しました。 私曰く、縣會議員にでもなりましたか、 某(ぼう)曰く、そんな小さい成功ではないのです。 私曰く、衆議員にでも當選しましたかと申すと、 其位(そのくらい)の成功ではありません。 五十二段も違ふと云う阿彌陀様を疑ふ様になりま した悦(よろこ)んで下さい、と實に飛越えた一言 である。奥深き妙味のある發言である。 併(しか)し乍ら決して佛を疑ふのが信仰では ない。 所謂(いはゆる)救ひの御佛を疑ふまでにも進ませ て貰うた事を喜ぶのである。 繰返せば、疑ひは信仰の道程(どうてい)であり 経路であるから、恰(あたか)も重病人程(ほど) 醫者を慕ふ想ひが強くなる様に、疑信の起る程 佛陀を慕ふ心の強くなる事は、我が煩悶中 (はんもんちゅう)の体験である。だから、五月號で 山野 新平氏に座談した様に、疑ひは信心の米を 噛み砕く歯であるから、疑ひや計ひが強いほど 御信心と云ふ御飯の味はひが出るので、其都度 (そのつど)法席が戀(こい)しいやら同病人が 懐しいやら、知識を慕ふ念が増して来るのである。 故に疑ひは邪魔にはならないが、恰もお灸の火が 足らぬと禍ひ(わざわい)する様に、疑ひが足らぬ と邪魔になるから、疑ふてはならぬと押付けずに 疑ひ残しのない様に、根機の盡(尽つきる)るまで 疑はれるなら、如何にしても如何にしてもと 大音 挙げて泣かずにも居(を)られないのである、 と同時に「露塵(つゆちり)ほども疑ひなければ 必ず必ず極楽に詣(まい)りて、美しき佛とは なるべきなり」 の御文が活きて飛ぶのである。 疑は光より(三戸 獨笑さん) |
金言金行集 |
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2020年7月26日 |
變化(へんげ)の法と云ふは、種のあることを するのぢやない、大豆(だいず)を蒔(ま)いて小豆 (あずき)を取ると云ふやうなことなら變りてある けれども、種があると云はねばならぬ。 今彌陀法(みだほう)は水瓶(みずがめ)から火を 出さうとするやうなことで、まるきり 「無有出離之縁(むうしゅつりのえん)」と〆(しめ) うたれてある其まゝを、佛にすると云ふが變化 (へんげ)の法である。 機の上では仕合せ丈(だけ)は知らせて貰ふことは 出来るが、なるほどの云へぬ法じや。 妙好人 三河の吉藏さん(信者めぐり) |
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