日本妙好人協会

詳細ページ3069


金言金行集
2020年7月2日
宅島(たくじま)の浅右衛門(あさえもん)


西本願寺の僧俗がまっ二つに分裂して、たがいに

自分の方が正しい信心だと主張してあらそうた、

その「三業惑乱(さんごうわくらん)」といわれる争そ

いの裁定(さばき)をしたのは、社寺奉行・脇坂

淡路守(あわじのかみ)であったが、脇坂は裁定に

先立ってお東の講師 香月院深励(こうがついん

じんれい)に、真宗の信心について学んだ。

そして自分の信念によって虚心(きょしん・わだか

まりを持たない心)に判決を下したという。

その香月院(こうがついん)が、判決前、京から

三河の赤羽(あかばね)別院に下るとき、

三業派ーー教権派ーーと思われる武士が後を

つけて下り、対面をもとめ「真宗安心の すわりを

ききたい。まちがえっていたらー」と刀を畳に

つき立ててすごんだ。

師は「わしがいうと学理になる、よくきいた信者から

きくがよい」といった。

「その信者をよんでくれ」

「宅島の浅右衛門をよびにやれ」

別院はおどろいた。 浅右衛門はまちがった信者と

して別院にまいることも許さなかった人であるから。

浅右衛門は使いから招きをうけると感激して

「誰もよんでくれてのない このやつ。日ごろは行

けぬところじゃが、ご講師さまからよんで下され

たればこそ、今日は行かせていただけるか」

といって、すすめる かごを、もったいないと

しりどけ、一里の道をあるきながら、

「自分の力では行けぬところじゃが、ぜひにこいよ

の おおせがあるから行かれます」

と念仏しながら別院についた。

 「この武士に、真宗安心の すわりをのべよ」

といわれると、

「とても参れるやつでは ござりませぬが、ぜひに

まいれよの おおせゆえに、まいらせていただきま

する」

と、すぐこたえた。

武士は重ねてきき、浅右衛門は重ねてそう言った。

このことばに武士は打たれ、座を下って頭を

下げた。

「真宗安心の すわり、それよりほかはない。うつし

とめし京へのみやげにせよ」

師はそういった。

こういう素朴純真な信者を。異端児として別院参詣

をさしとめるという ところに、封建的な権威主義が

あるわけだが、それはそれとして、たすかるまじき

ものが、たすけだされる ふしぎを、なむあみだぶつ

というほかに安心の すわりはあるまい。

浅右衛門はなつかしい人である。



信者群像より



【この一文をお読みになられたかたは、当ページ

金言金行集の2019年9月13日の詳細ページ3010

まで是非とも さかのぼって頂きお読み下さい!

同、三業惑乱騒動の登場人物・脇坂淡路守

(わきざかあはぢのかみ)の金言!香月院老師の

お育てを受けて立派な信者としての言葉を発して

いる・その言葉も純他力が徹底なされていると

思える懐かしい香りに満ちていた!】

なむあみだぶつ

なむあみだぶつ

なむあみだぶつ

金言金行集
2020年7月3日
 七三郎は七才で父が死んだので、早くから仏法

をきく身になったが、信を得ねば妻をもらわぬと、

二年間各地をめぐった。
 
 あるとき、美濃の農家にとまって

 「わしは おやさまの よびごえが、どうしても

きこえませぬ」

というと、主人の老婆が

「何をいうてござる。お前さまの口から出るお念仏

が、おやさまのよびごえじゃ」

と、ずばりといった。

その一言が七三郎をすくうた。そして皈って妻を

めとったのが三十才であった。

妻は邪見な女であった。それを七三郎は大切に

いたわったので友人から わらわれていた。

あるとき田から皈ると、妻はこしまきがないと

さがしていたが、七三郎がしらずして しりにしい

ていたので おこって、彼をえんから つきおとして、

こしまきで頭を打った。それでも七三郎は おこら

なかった。

しかし友人がきいて腹をたて、ここによんで あや

まらせよと強くいうと、

「お前らの女房は寺にもまいるから よいが、うち

のは あの心だから死ねば地獄におちるに ちが

いない。せめて短いこの世だけでも楽をさせて

やりたいと、大切にしています」

といってわびた。

妻は伝えきいて、打ち倒れて泣いた。

そして生れかわって いい女性になって、夫を

大切にし、仏法を信ずるようになった。
その他の金言集⇒⇒詳細ページ3068へのリンク